【縣居通信9月】
浜松における賀茂真淵ゆかりの女性たち
真淵は、生涯の半分を浜松で過ごしました。その浜松で、周囲からの深い愛情を受けながらも、最初の妻の死に直面します。今回は、真淵の人間形成に大きく影響を及ぼした女性を紹介します。
真淵の母
真淵の母は、長上郡天王村の竹山孫左衛門茂家の女(むすめ)でした。屋敷は年中鳥が集まるような大きな竹藪に囲まれ、徳川家康も鷹狩でこの屋敷に寄り、「竹山」と呼んだことから、高森姓を竹山姓に改めたとされています。母は、信心深く、神仏を尊ぶ、人を大事にし、貧乏な者をあわれみ、物を与える思いやりのある人だったと、人々が言い合っていたと、真淵は追想し『後の岡部日記』に書いています。真淵は、もの心がつくようになると両親から和歌を教わりました。母の前で和歌を詠むと母が古歌の良さを指摘したそうです。しかも、『万葉』などが話題になったと、後年『歌意考(かいこう)』で書いています。万葉調の大歌人もこのような環境から生まれたのです。
真淵の最初の師 杉浦真崎(すぎうらまさき)
真崎は、諏訪神社の神職である杉浦国頭(すぎうらくにあきら)の妻で、真淵の師、荷田春満(かだのあずままろ)の姪です。国学の創始者として江戸で名を挙げていた春満は、神道家として立派な国頭を気に入り、妹の娘雅子(のちの真崎)を嫁がせたのです。詠歌に秀で和学の素養もあり、挙措優雅(きょそゆうが)な美しい人でした。真淵は11歳の時から18歳の真崎に読み・書き・算盤などの手ならいを教わるようになり、大きな影響を受けました。その後、最初の師であった真崎の詠草を真淵が添削しています。真淵が考える師弟関係のあり方を知ることができます。
真淵の最初の妻 岡部政長の女(むすめ)
真淵は27歳で、武士であり詩文に秀でていた政長の16歳の娘婿子になりました。女は16歳で、二人は浜名湖を訪ね、細江や舘山寺に遊び、古人の歌枕を真淵が語り、新妻は文雅な受け答えをしたと思われます。しかし、二人の楽しい日々は僅かの間でした。結婚の翌年9月、若い妻はあの世へと旅立ってしまいます。17年後、真淵44歳で浜松に帰省した9月、墓参りをし、「古(ひり)にける 常世(とこよ)を慕ふ 雁のみは 廻(めぐ)り来てこそ 鳴きわたりけれ」と詠っています。平田篤胤の『玉襷(たまたすき)』によると、妻を失った真淵は、悲しみのあまり真言宗の僧になりたいと父母に願ったと伝えられています。後年、真淵は最初の亡き妻の弟政舎(まさいえ)の女お島を養女とし、中根定雄を婿として賀茂家の家督を継がせました。ここにも真淵の、彼女に対する篤い思いがあらわれています。
参考:『国文学 解釈と鑑賞 特集 近世の歌人たち』(鈴木 淳 至文社)
『賀茂真淵―生涯と業績』(寺田安正著 浜松史蹟調査顕彰会)
『浜松市立賀茂真淵記念館 縣居通信(令和3年4月号)』
