メールでのお問い合わせはこちらから

お問い合わせ

縣居通信


【縣居通信6月】
吾跡川楊(あどがわやなぎ)はどこにある?
霰(あられ)降り 遠江の 吾跡川楊(あとかはやなぎ) 刈れども またも生(お)ふとふ 吾跡川楊
 万葉集の巻7の雑歌の最後に旋頭歌24首があり、そのうちの23首には「柿本朝臣人麻呂之歌集出」とあります。この歌は、その中にある1首です。大意は、「遠江国の吾跡川のほとりに立つ楊が刈られても刈られてもまた新しい芽を出すように、諦めよう諦めようとしても想いはつのるばかりであるよ。」となります。
それでは、遠江の吾跡川楊とはどこにあるのでしょうか?
 浜松市北区細江町気賀の跡川地区の川沿いに、「吾跡川楊」の立派な歌碑(H8建立)が立てられています。賀茂真淵の「万葉集遠江歌考」の中にも、この吾跡川楊の歌が取り上げられているので遠江の吾跡川楊は、細江町気賀に間違いないと思いがちですが、「万葉集遠江歌考」の中で真淵は次のように述べています。
 「遠江の二字は、とほつあふみとよみて、遠州のこととすべけれども、此あと川は、近江の高嶋郡にて、當集にたかしまのあと川浪とも、あとのみなととも、又は、しほづすがうらなどよみ合て侍れば、決て遠州には侍らず」とあるのです。

 さらに、同朋大学名誉教授の夏目隆文氏は、著書の「万葉集遠江歌新考」の中で、「遠江は遠つ淡海で遠江の国名と解すべきである。」と主張していますが、「『万葉考』はこれを否定して吾跡川を近江高嶋郡の安曇川をそれと推定する。以来これが定説化してすでに久しい。」としています。
 万葉集で詠われた地名については、「引馬野ににほふ榛原入り乱れ……」「引馬野」の遠江説・三河説の例を見るまでもなく、古来、様々な論説があり、この吾跡川楊の歌も「遠江」の解釈により意見は分かれると思われます。いずれにしろ、細江町気賀の跡川地区に歌碑を建てた地元の人々の万葉への想いを大切にしたいものです。