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縣居通信


【縣居通信3月】
賀茂真淵と本居宣長「松坂の一夜(ひとよ)」とその後の交わり
 賀茂真淵記念館の展示室に、松坂の一夜の図が飾られています。宝暦13年(1763年)の2月、67歳の真淵は、主君田安宗武の命を受け、念願の「万葉集」「源氏物語」ゆかりの大和、奈良、飛鳥、吉野などを訪ねる旅に出ます。道中では、富士の高嶺、吉野の桜、奈良薬師寺の仏足石などを見て感動し、故郷浜松では、ゆかりの人々との旧交を温めます。そして、大和探訪の帰路、伊勢神宮への参宮のため、伊勢路へと足を運びました。
  5月25日の夜、真淵は、松坂の旅宿で34歳の本居宣長の訪問を受けます。この訪問が、真淵と宣長、一生に一度の出会い「松坂の一夜」として、明治期に佐佐木信綱の記した文章となり、人々の知るところとなりました。一夜の出会いから師弟の絆が結ばれ、宣長が学問に精進する話は、大きな感動に満ちています。
◆その夜、二人は何を語ったのでしょうか。二人の会話の内容は次の3点だったと言われています。
〇宣長の入門希望に対し、真淵が内諾を与えた。
真淵が、古事記研究のためには、万葉集の解明・味読が急務であると述べ、宣長は万葉集の解明指導(質疑)を願い、真淵はその教導(応答)を約束したこと
〇万葉研究のためには、古風(万葉調)の歌を詠むことが必須との真淵の言を受けて、宣長が歌の指導(添削・批評)を乞い、真淵がそれを受諾したこと
 宣長にとって、真淵への入門が認められ、宣長が求めていた古事記の解釈に向け、万葉集を通した古語についての質疑を真淵が快諾したこの夜の出会いは、胸に残るものであったにちがいありません。佐佐木信綱の名文では「夏の夜はふけやすい。家々の戸はもう皆とざされている。老学者(真淵)の言に深く感動した宣長は、未来の希望に胸をおどらせながら、ひっそりとした町筋をわが家に向かった。」…と著されています。 <参照:松坂の一夜については2017年9月号に記述あり>

◆宣長から真淵へ 万葉集問目にまとめられた二人の通信教育~宣長、江戸の真淵に山のように質問
 真淵に入門した宣長は、真淵へ万葉集の語句(古語)について、次々と質問の書状を送ります。その質問と行間に真淵が答えた文言が、万葉集問目として残っています。問目集の一部を紹介します。
 本居宣長から真淵へ、細かな質問が送られ、真淵がひとつひとつ真摯に答えているのがわかります。

 なお、真淵は、この書簡の末尾に宣長へ指導の文言を書いています。「万葉集のこの巻は大変理解が難しい。自分も年月をかけ、おおよそを理解したところです。よく見るようにしなさい。…この巻を完全に解釈した人はいないと思います。思いたがえることも多いと思います。」と時間をかけ、じっくり読み、解釈をしていくよう助言しています。師弟の真剣な学びの一端がわかります。

◆真淵から宣長への書簡~当初は宣長を叱責することもあった真淵、しかし弟子への深い思いがあった。
 また、真淵は、宣長の質問に答えるだけでなく、何通もの書簡を書いています。宣長が真淵の万葉調の歌を詠むように…との指導を守らず、新古今調の歌ばかりを書き送って添削を願う姿勢に、業を煮やし「あなたの歌は風調よろしからず」と切り捨て、さらに「破門だ!」と立腹した書簡もあります。

 しかし、真淵は、宣長のずば抜けた才能や学問への志の高さを認識し、厳しく接してもへこたれない宣長を、心の底では認めていました。晩年の宣長への書簡「賀茂真淵書簡 本居宣長あて“五月九日”」(原本 本居宣長記念館蔵)では、多くの弟子の中で、後を託すのは宣長だと真淵が思っていたことが伝わってきます。この亡くなる半年前の書簡では、「私の意見には僻意(へきい:偏った考え)も多いと思うので、あなたが再検討していってください」といった文言が書かれています。宣長からは質問だけでなく、自分の研究内容についての批判的な意見も寄せられ、時に怒りの返信も書いた真淵ですが、晩年には『後は頼む』といった気持ちで記したことがわかります。
 なお、真淵は、生涯最後の出版となった日本語についての著書「語意考」についても、その序文の執筆を宣長に依頼しています。

◆真淵没後の宣長~終生真淵を師と仰ぐ
 真淵が亡くなったことを、江戸の真淵門人の楫取魚彦(かとりなひこ)からの書簡で知った日の宣長の日記は「真淵先生が亡くなられた。哀惜に堪えず。」と簡潔な文言があるのみです。簡潔がゆえに、逆に宣長の大きな悲しみが感じられるようにも思います。
 そして、その13年後、宣長は、真淵の法要を家族や弟子たちを集めて行った際には、自ら「縣居大人霊位(あがたいのうしのれいい)」(左写真参照)と書いた掛け軸を床の間にかけ、偲んでいます。
 また、真淵先生のことを随筆「玉勝間」に記します。103段「おのが物まなびの有しやう」では、冠辞考という師の著書を手にし、先生の名を知り弟子入りを願い実ったこと、104段「あがたゐのうしの御さとし言」では、低きところよりよりよくかためて高きところにという学びの道を教えていただいたこと、105段「おのれあがたゐの大人の教えをうけしやう…」では、一夜だけの出会いであったが、質問の手紙に多くの御こたえをいただいたことなど、師真淵との交わりを詳しく記しています。真淵を師として仰ぐ宣長の姿勢は終生途切れることはありませんでした。