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縣居通信


【縣居通信2月】馬の鳴き声は? ~音韻は時代によって変化した~
『万葉集』巻第十二に、 
「たらちねの 母が飼う蚕(こ)の 繭隠(まよごも)り いぶせくもあるか 妹に逢はずして」(2991)
という歌があります。「たらちねの」は母の枕詞。「繭隠り」までは序詞であり、蚕が繭にこもって身動きもない窮屈なさまから、第四句の「いぶせくもあるか」につなげています。この序詞は万葉集の他の歌(2495・3258)にも見られます。「いぶせし」は気持ちが晴れないという意の形容詞です。
 ところで、この歌の原文は、次のようになっています。
「垂乳根之 母我養蚕乃 眉隠 馬声蜂音石花蜘蛛荒鹿(いぶせくもあるか) 異母二不相而」(岩波文庫『原文万葉集』)
 「いぶせくもあるか」は「馬声蜂音石花蜘蛛荒鹿」と表記されています。馬の鳴き声を「い」、蜂の羽音を「ぶ」とし、一種の擬声語を使っています。このように多少の遊戯性が認められる表記を「戯書」といいます。『万葉集』には、様々な「戯書」が見られます。数字遊びも「戯書」の一種で、「二二」で「し」、「二五」で「とを」、「十六」と書いて「しし」、「八十一」と書いて「くく」など、九九を利用した表記が見られます。
 さて、「馬声」を「」とよむことについて、契沖は『万葉代匠記』で「馬声ハ馬ノ声ハト聞ユル故ナリ。イナナクト云モ其意ナルベシ」と言っています。賀茂真淵も『万葉考』で「牛鳴を毛のかなに書し如く、馬はいんと鳴、蜂はぶんと鳴をもて書り」と記しています。契沖も真淵も馬は「」あるいは「イン」と鳴くととらえていたようです。馬の鳴き声に昔も今も変わりはありません。現代人から考えると、馬の鳴き声を「イ」・「イン」と表すことに、納得がいきませんが、それには理由があるようです。
 明治・大正・昭和の国語学者である橋本進吉博士の説によりますと、ハヒフヘホは、今ではhahihuhehoと発音されていますが、このような音は古代の国語にはなかったようです。hahihuhehoの音はもっと後になって日本語の音韻に加わったものであり、それ以前は、これらはfafifufefoと発音されていた、と博士は言っています。その表れとして、例えば、「漢」という文字は、中国ではhanと発音しますが、この字が日本に伝わったころ、日本語にはhaの音がなかったため、kanと読んだ、と博士は紹介しています。
 動物の鳴き声も、当時の人々が用いていた音によって表されます。hiという音がなかった時代には、馬の鳴き声として、hiに最も近い音として「イ」を用いていたのでしょう。また、橋本博士は「ン」の音も漢語にはあったけれども、古代の国語にはなかったと言っています。したかって、古代の馬の鳴き声の表記は「イ」となったということになります。
 それでは現代のように、馬の鳴き声(いななき)を「ヒン」あるいは「ヒヒン」と表記するようになったのはいつごろのことだったのでしょうか。
 江戸時代の初期の落語家鹿野武左衛門(しかのぶざえもん)の著書『鹿の巻筆(まきふで)』に馬の脚になった男が「いゝんいゝんと云いながらぶたいうちをはねまわった」という記述がありますが、馬の鳴き声を「い」と表すことが元禄のころまであったことが分かります。しかし、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』には、馬の鳴き声を「ヒインヒイン」または「ヒゝヒンヒン」とあらわしている場面が見られます。江戸時代の半ばころから、馬の鳴き声の表記は「イ」から「ヒ」に変わってきたようです。
 このように日本語の音韻は時代によって変化してきました。外国語の移入が、日本語の音韻に大きな影響を与えたと言われています。例えば、漢語の国語化によって、「きゃ・きゅ・きょ」のような拗音、「もって」のように「っ」の促音が日本語に加わりました。また、撥音便やイ音便・ウ音便なども、漢語の国語化の影響であると言われています。
 このような音韻の歴史の研究は、江戸時代の国学者たちによって始められました。かれらは、古典の研究を通して、昔の日本人の言葉や音声に注目していました。本居宣長は、『古事記』の仮名の研究から、上代の国語には江戸時代にはなくなっていた音韻があることに気づきました。そして、宣長の門人であった遠江の国学者石塚龍麿は、上代の音韻の研究を『仮名遣奥山路』にまとめました。この業績は、後に橋本進吉博士によって世に紹介され、博士の「上代特殊仮名遣い」の研究に先立つ画期的な研究として高く評価されています。
 私たちの生活が時代によって変化してきたように、私たちが使う日本語の音韻も変わってきました。橋本博士は「日本語には美しい秩序がある」と言ったそうですが、国学者たちもきっとそれに気づいていたのでしょう。