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縣居通信


【縣居通信9月】「松坂の一夜(ひとよ)」で何が語られたのか?
(現在は松阪) 
 賀茂真淵記念館の展示室に、松坂の一夜の図が飾られています。松阪市の本居宣長の宮の拝殿にあった油絵で、深沢清という人が描き、牧戸正平という人が奉納したものです(絵の裏書)。佐佐木信綱氏の文章「松坂の一夜」の想像画です。
 宝暦13年(1763年)の2月、67歳の真淵は、主君田安宗武の命を受け、念願の「万葉集」「源氏物語」ゆかりの大和へ、奈良、飛鳥、吉野などを訪ねる旅に出ます。道中では、富士の高嶺、吉野の桜、奈良薬師寺の仏足石などを見て感動し、故郷浜松では、ゆかりの人々との旧交を温めます。そして、真淵は、大和探訪の帰路、伊勢神宮への参宮のため、伊勢路へと足を運びました。
 5月25日の夜、真淵は、松坂の旅宿“新上屋(しんじょうや)”で34歳の本居宣長の訪問を受けます。この訪問が、真淵と宣長、一生に一度の出会い「松坂の一夜」として、明治期に佐佐木信綱の記した文章となり、教科書に掲載されるなど日本全国の人々の知るところとなりました。一夜の出会いから師弟の絆が結ばれ、宣長が学問に精進する話は、大きな感動に満ちています。

◆その夜、二人は何を語ったのでしょうか。  記念館の子供向けパンフレットでは、絵に吹き出しを入れ、宣長「先生、古事記を勉強するには、どのように学べばいいのでしょうか。」真淵「まず、万葉集で古い言葉を学びなさい。」と記してあります。
 記念館学芸参与を長年務めた故寺田泰政氏の著書「明解賀茂真淵」では、岩田隆氏の研究結果を引用し、二人の会話の内容は次の3点ではと紹介しています。
 〇宣長の入門希望に対し、真淵が内諾を与え、正式の入門手続きは、弟子の村田春海の指示に従って進めること
 〇真淵が、古事記研究のためには、万葉集の解明・味読が急務であると述べ、宣長は万葉集の解明指導(質疑)を願い、真淵はその教導(応答)を約束したこと
 〇万葉研究のためには、古風(万葉調)の歌を詠むことが必須との真淵の言を受けて、宣長が歌の指導(添削・批評)を乞い、真淵がそれを容れたこと
 宣長にとって、真淵への入門が認められ、宣長が求めていた古事記の解釈に向け、万葉集を通した古語についての質疑を真淵が快諾したこの世の出会いは、胸にあつく残るものであったにちがいありません。佐佐木信綱氏の名文では「夏の夜はふけやすい。家々の戸はもう皆とざされている。老学者(真淵)の言に深く感動した宣長は、未来の希望に胸をおどらせながら、ひっそりとした町筋をわが家に向かった。」…と著されています。

◆宣長と真淵の出会いはいくつかの伏線があった。  本居宣長記念館館長の吉田悦之氏は、著書「宣長にまねぶ」(左写真)の中で、二人の出会いについて述べている。~(以下、吉田氏の著書をもとに二人の出会いを別の視点から考えてみる。) 真淵が伊勢神宮参宮の途中宿として松坂に泊まったのであれば1泊2泊のはず。真淵は、実際には松坂に数日滞在した。これは、史料探訪、古書の探索のためだったと推測できる。真淵は、弟子に京都で古書を求めさせており、松坂が商都であり、貴重な古書の存在の可能性が高い町であることを認識して松坂に滞在したと考える方が、数日の滞在、そして帰路にまた宿泊するという行動の背景も分かりやすい。真淵の宿泊した新上屋の隣が柏屋という本屋。柏屋に頻繁に出入りしていた宣長は、古語研究に打ち込む大学者真淵の冠辞考を読み、かねがね柏屋の主人に「真淵先生にお会いしたいものだ。」と述べていた。ここから、柏屋の主人が宣長に真淵が松坂に来たことを知らせ、二人は出会うことになっていく…。そう考えると、こうした二人の行動の伏線があって、運命に導かれるように交わることができたと言えなくもない。