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縣居通信


【縣居通信6月】万葉集「中大兄三山歌」の謎


「香具山は 畝傍(うねび)を惜(を)しと 耳(みみ)梨(なし)と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古も 然(しか)にあれこそ うつせみも 妻を 争ふらしき」(『万葉集』巻一 13) (香具山は畝傍山を取られるのが惜しいと、耳梨山と争いあった。神代から、このようであるらしい。昔もそうであったからこそ、今の世の人も、妻を奪いあって争うらしい。)
 有名な「中大兄三山歌」と呼ばれる中大兄皇子の長歌です。中大兄皇子は「大化の改新」の立役者で後の天智天皇。歌末が五三七となるのは古い長歌の形式です。訓と口語訳は、岩波文庫『万葉集』(2013年版)によりました。原文は次のようになっています。
高山波 雲根火雄男志等 耳梨与 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母
然尓有許曾 虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉
(岩波文庫『原文万葉集』より)
 「中大兄三山歌」は、過去多くの学者によって様々な解釈がされてきました。鎌倉時代の万葉研究家仙覚は「畝傍、耳梨二山が男山で、はじめ耳梨山が女山である香具山に思いをかけたが、後に畝傍山がまた香具山に懸想し、畝傍の雄々しい姿に香具山が心惹かれるようになったので三山の争いとなった。」と解釈しました。
 江戸時代になり、仙覚の解釈を受けて、国学の創始者契沖は『万葉代匠記』で「(初めの)四句は、三山のあらそひし事をのべたまへり。第一の句かぐ山をばと心得べし。かぐ山を高山と書きて読むことは、神代より名高き山にて、他の山に異なれば、義をもて書けり。をゝしは、をのこらしきなり。」といって、「高山は」の「は」は「をば」の意であり、女山の香具山を、男山の畝傍山と耳梨山が妻にするために争ったと解釈しています。賀茂真淵も『万葉考』でほぼ同様の解釈をしていますが、「今本(寛永版本)高山と有は誤也、三山の一つは必香山にて、外の二山より低ければ高山と書べからず」といって、「高山」の表記を間違いだと言っています。栗田土満(くりたひじまろ)や本居春庭の門人、石川依平も『中大兄三山歌考』で「初句ハ高山ヲハノ意ニ説ル契沖師の説ヨロシ」と考え、畝傍山は己の雄々しさを誇って耳梨山と争ったとし、契沖や真淵の解釈を踏襲しています。
 ところが、真淵門下の谷真潮は「雲根火雄男志」を「畝傍を愛し」と訓み、香具山と耳梨山を共に男山で畝傍山が女山だとする新説を出しました。木下幸文(きのしたたかふみ)も「亮々草紙(さやさやそうし)」で「今考ふるに高山波とあるをかぐ山をばと云意にみん 事は強たる事也」といって契沖の解釈に異を唱え、真潮の説に賛同しました。宣長の門人伴信友も同様の説を唱えています。
 このように、江戸時代には、畝傍山を女山、香具山・耳梨山を男山とする説と香具山を女山、畝傍山・耳梨山を男山とする二説が唱えられるようになりました。明治時代になってからは、前者の説が有力となり現在に至っています。大正6年、斎藤茂吉は『童馬漫語』で「予の現在は真潮の説に従ってゐる」といって、前者の説をとっています。なお「を愛し」は、「を惜し」と訓むようになりました。
 しかし、この二説以外の考えを主張した学者もいました。折口信夫は、『口訳万葉集』で「昔女山なる香具山が、同じ女山なる耳梨山と、畝火山を男らしい山だと奪い合ひをしたと云ふが」と解釈している。つまり、香具山を女山、畝傍山を男山、耳梨山を女山としたのです。
 また、澤瀉久孝(おもだかひさたか)は『万葉集注釈』で、「素直に仙覚にかへれば、それでよいのである」として、「香具山から近い位置にある耳梨にまづ云ひ寄られた香具山が、後にやゝ距(へだ)たった位置にある雄々しく美しい畝傍へ心を移す」という解釈をしています。つまり、女山の香具山が男山の耳梨山といさかいをした、と解しています。
 このように「中大兄三山歌」は、作者と弟の大海人皇子とのあいだの額田王をめぐる確執の話しとも結びつき、妻争いの歌として、多くの学者や歌人によって様々な解釈がされてきました。冒頭の訓や解釈が主流となっていますが、未だに定説はありません。
 万葉人は、身近な大和三山をどのような思いで毎日眺めていたのか、興味は尽きません。