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縣居通信


【縣居通信5月】「縣居(県居あがたい)」とは
 賀茂真淵記念館に隣接する縣居(あがたい)神社に祭られているのは、学問の神「賀茂真淵(かものまぶち)」です。本来なら、「賀茂真淵神社」と呼ばれそうですが、「縣居神社」と呼ばれます。それだけでなく、地元の東伊場に位置する小学校や協働センターの名前にもなっていて「縣居」(県居)は、地元で真淵翁を表す言葉として定着しています。(※神社以外は県居と表記されています。)

◆本来は、日本橋浜町の住まいに真淵翁がつけた名。意味は「田舎住まい」。
 真淵が奈良吉野伊勢に旅をし、松坂で本居宣長と会った「松坂の一夜(ひとよ)」が宝暦13年(1763年)。その翌年、改元され明和元年(1764年)真淵68歳の7月、日本橋浜町に建てた新居に移ります。その住まいを真淵自ら「縣居(あがたい)」と呼びました。 真淵の著書「ふゝくろ」八二で、「おのれ氏は賀茂、かばねはあがたぬしなれば、をる所(住む所)をあがたゐ(い)といふ也。あがたとはゐなかの心也」と真淵自身が注釈しています。日本橋にも近く、花火大会でにぎわう大川(隅田川)にも近い浜町は、家が立ち並ぶ繁華な地ですが、真淵は、故郷の田舎に心を馳せ、古代の生活を現実のものとして営もうとしていたようです。弟子の橘千蔭(たちばなのちかげ)が書いた書物にも「県居とは庭を田舎のさまに作りて、賀茂氏の姓にも由あればとて、自らの家の名に負(おほ)せられたるなりけり」とあります。そして、その県居に住まう先生として、真淵のことを、門人たちが「縣居の翁」「縣居大人(うし)」…と呼び、書物に記される中で、縣居とは賀茂真淵翁のこととなったようです。

 遠江の門人内山真龍(またつ)は、江戸の真淵の住まいを訪れ、賀茂県主真淵県居図を記しました。小山正著「賀茂真淵傳」の中に、間取り図などが紹介されています。庭には、火災に備え書籍類を炎から守る穴蔵も設けられました。四畳半の書斎には周囲に板敷もあり、多くの 門人が集うことに対応していました。
 現在、正確な場所は分かりませんが、都営地下鉄新宿線の駅「浜町」から北西に歩いてすぐの清州橋通り沿いのビルの壁に、中央区教育委員会による「賀茂真淵縣居の跡」(写真)のプレートが設けられています。
※東京駅八重洲口から都中央区の地域巡回バス“江戸バス”北循環に乗り、10番目のバス停、浜町一丁目で下車。バス停の斜め向いのビル。明治座からは、清州通り沿いに北西へ100m弱、久松町交差点の近くのビル。1階はファミレスになっています。