【縣居通信8月】
真淵の弟子 内山真龍の江戸時代の大旅行
真淵の弟子、内山真龍は「健脚の人」といわれます。若年の頃は浜松の渡辺蒙庵(わたなべもうあん)の塾に通い、国学研究に没頭してからは、当時江戸にいた真淵に従学し、やがて、歴史地理の主題を掲げて遠江各地を踏破し、さらに研究の深化に伴って山陰・近畿を巡歴します。真龍の研究旅行は21歳の宝暦10年(1760)6月から始まり、73歳の文化9年(1812)4月出発の京都旅行に至るまでの間、23回にも及ぶ大小の旅行を経験しています。
その中で生涯最大のものが、出雲から長崎、日田、小倉を経て山陽道を通って帰省した『出雲風土記解(いずもふどきかい)』の実地調査です。天明6年(1786)真龍47歳の時、叔父の山下政嗣(やましたまさつぐ)(60歳)、門人の小国重年(おくにしげとし)(21歳)・山下政定(やましたまささだ)(19歳)・鈴木書緒(すずきふみお)(18歳)・高林方朗(たかばやしみちあきら)(18歳)との、出雲・九州へ80日を越す大旅行でした。この旅日記が『出雲日記』です。文章だけでなく和歌も詠ませ、所々に真龍直筆の趣のある風景画が差し挟まれています。巻の始めに、本文に重ねて、本居宣長の序歌があります。『出雲日記』という題名は誰がつけたか分かりません。高林本、内山本・加藤本・清滝寺本・山下本などの伝本があり、『内山本』には「出雲行」という内題がついているので、本来の題名は『出雲行』が正しいと思われます。
正月21日の早朝に天竜鹿島を出発し、2年前になくなった名古屋の田中道麿(たなかみちまろ)の家を訪ね、親しい友人と夜通し語り合います。真龍は、真淵亡き後、道麿に指導を受けますが、真龍が事実に即さない観念的な歌を作るとすぐに見破ってしまったそうです。山下政定と高林方朗はここで合流します。これには真龍も「こうなったら通れないような所でも踏みならして通ってやろう」と2人の合流に喜びを隠しきれなかったようです。2月の始め、琵琶湖を通り、雪の降り積もる中を須磨に至ると、雄略(ゆうりゃく)天皇に殺された皇子の子供、大計(おけ)と小計(をけ)に思いを馳せています。出雲では地元の神主の接待を受け、「大盛りで出てきたウグイは大きなスズキよりも立派なごちそうだ」と感動しています。3月には船で九州の小倉に渡りますが、旅の心細さを拭うように草餅を食べて節分のお祝いをしています。その後、宗像郡香椎(むなかたぐんかしい)の宮を参拝し、太宰府跡を通り、筑後の国の天照大神(あまてらすおおみかみ)の社などを拝み、帰路、小倉から長門に渡りました。日が昇る播磨灘(はりまなだ)や南に見える四国の島々など吉備(きび)の美しさに目を奪われながら、4月に明石(あかし)に着きます。京都を過ぎると故郷の便りが聞きたくなったようで旅路を急ぎ、中旬に名古屋に至っています。道中、4人の若い連中が遊び回るのを、年長者として心配して居る様子も窺えます。
真龍が82年の生涯をおえた後、日本を取り巻く国際条件が変化し始めますが、真龍は混乱の前の幸せな時代に、着想・精進(しょうじん)・天寿(てんじゅ)に恵まれ、旅を愛し、人との結びつきを大切にして晩年を迎えました。
◆参考文献:『出雲日記』(天竜市文化協会)、『内山真龍』(天竜市役所)
